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私達が取り組んでいる(取り組みたい…)作品をご紹介します。

 

 

作品

 

 

 

 

@Spanish Mass

 

 

Missa O Magnum Mysterium  (Tomas Luis de Victoria)

 

 

Kyrie

MIDI here

 

 

 

Gloria

 

 

 

 

Credo

 

 

 

 

Sanctus

 

 

 

 

Benedictus

 

 

 

 

Agnus Dei

 

 

 

 

 

 

 

 Missa O Magnum Mysterium(ミサ・オ・マニュム・ミステリウム)は、1592年発行の「ビクトリア作曲ミサ曲第2巻」に納められて以来、何回も版を重ねて出版されました。ビクトリア自身による同名の4声モテトゥスによるパロディ・ミサ曲(マドリガ―レやモテトゥスなど既存のポリフォニーを素材にして再構成されたミサ曲)の形によっています。ちなみにこのミサ曲のモデルになったのはクリスマスのためのモテトゥス「オ・マニュム・ミステリウム(おお、大いなる神秘)」です。とくに、「キリエ」と「サンクトゥス」の冒頭部分にモデルになったモテトゥスと強い類似性があり、またモテトゥス終り近くの三拍子の動きは「グロリア」と「クレド」の中に挿入され、「ホザンナ」全体も三拍子になっています。

 

 

 

 

 

ASpanish Motets

 

 

Cristobal de Morales

 

 

 

Peccantem Me Quotidie

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Regina Caeli

MIDI here

 

 

 

Simile Est Regnum

MIDI here

 

 

 

Domine Deus

MIDI here

 

 

Francisco Guerrero

 

 

 

 

Canite Tuba

MIDI here

 

 

 

Gloriose Confessor

MIDI here

 

 

 

Petre ego pro te rogavi

MIDI here

 

 

 

O Domine Iesu Christe

MIDI here

 

 

 

Lauda Mater Ecclesia

 

 

 

 

Sancta Maria succurre miseris

MIDI here

 

 

 

Alma Redemptoris Mater

 

 

 

 

Ave Maria

 

 

 

 

Ave Regina Coelorum

 

 

 

 

Regina Caeli

 

 

 

 

Sancta Maria

 

 

 

 

Accepit Iesus Panes

 

 

 

 

Similabo Eum

 

 

 

 

Virgines Prudentes

 

 

 

 

Petre Ego Pro Te Rogavi

 

 

 

 

Istorum Est Enim

 

 

 

 

Iste Sanctus

 

 

 

 

In Illo Tempore Assumpsit Iesus

 

 

 

 

Gloriose Confessor Domini

 

 

 

 

Ecce Ascendimus Hierosolimam

 

 

 

 

Dum Aurora

 

 

 

 

Dulcissima Maria

 

 

 

 

Ibant Apostoli

 

 

 

Tomas Luis de Victoria

 

 

 

 

  Ave Maria

MIDI here

 

 

 

O Quam Gloriosum Est

MIDI here

 

 

 

O Vos Omnes

MIDI here

 

 

 

Doctor Bonus Amicus Dei

 

 

 

 

Ecce Sacerdos Magnus

 

 

 

 

Gaudent In Caelis

 

 

 

 

O Decus Apostolicum

 

 

 

 

Quam Pulchri Sunt Gressus Tui

 

 

 

 

Veni Sponsa Christe

 

 

 

 

 

 

 

 

BMotets for mix voices

 

 

G.P. de Palestrina

 

 

 

Super Fumina Babylonis  

 

 

 

 

Sicut Cervus

 

 

 

 

Hodie Christus Natus Est

 

 

 

 

Ave Maria

 

 

 

 

Missa Aeterna Christi munera

 

 

 

 

Kyrie

 

 

 

 

Gloria

 

 

 

 

Sanctus

 

 

 

 

Benedictus

 

 

 

 

Agnus Dei T

 

 

 

 

Agnus Dei U

 

 

Heinrich Schutz

 

 

 

 

Quoniam ad te clamabo

MIDI here

 

 

Claudio Monteverdi

 

 

 

 

Ecco mormorar l’onde

 

 

 

Josquin de Pres

 

 

 

 

Ave Maria

 

 

 

 

El Grilo 

 

 

 

Robin Wells

 

 

 

 

A Fanfare For Christmas

 

 

 

Spanish Traditional

 

 

 

 

Riu, Riu, Chiu

 

 

 

John Dowland  

 

 

 

 

Come Again!

 

 

 

Thomas Morley

 

 

 

April Is In My Mistress Face

 

 

 

 

It was a lover

 

 

 

 

Though Philomela Lost Her Love

 

 

 

 

 

 

 

 

Henry Thomas Smart

 

 

 

Angels from the Realms of Glory

 

 

CMass for men’s voices

 

G.P. de Palestrina

 

 

 

Missa Aeterna Christi munera (TTBB)

 

 

 

 

Kyrie

 

 

 

 

Gloria

 

 

 

 

Sanctus

 

 

 

 

Benedictus

 

 

 

 

Agnus Dei T

 

 

 

 

Agnus Dei U

 

 

 

 

 

 

 

『サカラメンタ提要』について

 

 

 

 

1549年8月15日、鹿児島に上陸した聖フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教は、同時にグレゴリオ聖歌等ルネサンス期の西洋音楽を伝え、これらの音楽は60年余りに渡って日本各地の聖堂で日本人の手によって演奏されたといわれています。

『サカラメンタ提要(Manvale ad Sacramenta Ecclesiae Ministranda)』(1605年刊)は、日本司教ルイス・セルケイラが編纂した典礼書です。キリシタン宣教初期にはミサ以外の諸典礼式書は存在しなかったので、巡察師のヴァリニャーノが1580年の協議会においてつくるように指示したそうです。『サカラメンタ提要』は日本文化・習俗を考慮した上で編纂されており、司教執行の堅信と司祭叙階を除く5つの秘跡に関する説明と教会法による規定、信者への訓辞などが示され、他にも各種の祝別や行列、埋葬式などへの指針が書かれています。ちなみに式文は黒色刷り、説明文は赤色刷りになっており、日本で最初の二色刷り印刷といわれています。

この中には19曲のグレゴリオ聖歌の楽譜が含まれていますが、現存する日本最初の活版活字印刷楽譜であり、二色刷活字印刷書でもあります。聖歌は五線のネウマ譜によって書かれており、五線が赤、音符が黒となっています。また、日本人が葬儀を重要視することから、19曲中13曲が葬儀用、他の6曲は司教訪問などの時に歌う曲となっており、一般信徒が普段歌うようなものではなかったようです。

 私たち江迎中世音楽研究会は、平成16年12月からこれらの曲に取り組み始め、現在「Tantum ergo」他2曲を練習しています。

 

作曲家たち

 

 

Jean Mouton (仏 1459頃-1522)

 

Reges terrae congregati sunt  (王たちは集められ)

 

各地の王たちが呼ばれ、

一つに集まって言いかわす

「ユダヤの地に行こう。

そして、そこに生まれた

偉大な王を探そう。

その星をわたしたちは見ている。」アレルヤ。

(訳:水嶋良雄)

 

Jean Mouton (ジャン・ムトン)について>

 「Reges terrae congregati sunt」はフランドル楽派のフランスの作曲家「ジャン・ムトン」の宗教曲ですが、私、朝日のコンクール課題曲が発表されるまではジャン・ムトンって作曲家の存在を全く知りませんでした。恥ずかしながら…。皆さんはご存知でしたか。ムトンは少年時代から聖歌を歌っていたノートルダム教会の楽長に、25歳という若さで就任し、40代になると宮廷に入り、最後にはフランソワ一世に直々に仕えました。こういった経歴からも才能豊かな作曲家であったことがうかがえます。また、ムトンはジョスカン・デ・プレの弟子であり、アードリアーン・ヴィラールトの師匠でもありましたが、デ・プレは解説の必要が無いほど有名ですし、ヴィラールトもヴェネツィア楽派を確立したという意味で偉大な作曲家といえますので、その才能が彼らの陰に隠れがちなのが残念です。

 

<フランドル地方について>

 現在のフランドルとは、西は北フランスと北海、南はベルギーのワロン人地区、北と東はオランダと接している、西フランドル、東フランドル、アンベルス(アントワープ)、リンブルク、フラマン系ブラバントの北部5州のことです。歴史上のフランドルは、現在のフランドルと微妙に異なりますが、現在のオランダやフランス、ベルギーの一部も含む地方でということになります。つまり、ベルギー西部からフランス北端にかけて、アルトワ丘陵とスヘルデ川とに挟まれ、北海に沿う低地の地方をいいます。中世以来毛織業が盛んで、13世紀以降国際的に評価され、ルネサンス時代には経済的な繁栄の頂点にありました。こうした中、多くのすぐれた職人や芸術家が育ち、我が国ではアニメ「フランダースの犬」の影響のせいか、フランドル(フランス語)よりフランダース(英語)という呼称の方がよく知られています。

 

<フランドル楽派について>

「フランドル楽派」はルネサンス期(1400-1600)にヨーロッパ全域で活躍した、フランドル地方出身の音楽家たちの総称です。当時の全ヨーロッパの音楽様式に決定的な影響力を持っていました。フランドル楽派のことを「ネーデルランド楽派」と呼ぶこともあったようですが、狭義のネーデルランド、すなわちオランダはプロテスタント地区になるので、正確な呼び方ではありません。確かにオブレヒト、クレメンス・ノン・パパ、スヴェーリンクなどフランドル楽派を代表的する作曲家達はオランダの出身でしたが、それ以外のフランドル楽派の音楽家のほとんどはエノー、ブラバント、スヘルデ川、北海、アルトワ台地などに囲まれた南フランドル地方に生まれ、教育を受けていました。また、「ブルゴーニュ楽派」もフランドル楽派と区別され、これはブルゴーニュ公国とその属領であったフランドルのブルゴーニュ宮廷で展開された楽派です。

 

フランドル楽派の音楽には、主に次のような特徴があります。

1.独立した旋律を担う声部を、いくつか同時に組み合わせて楽曲を構築する「対位法」を使用している

2.各声部が対等の関係で旋律の模倣を行う「通模倣様式の対位法」を使用している

3.その旋律の組み合わせは、厳格な模倣による対位的書法、すなわち「カノン」を用いている

 

「フランドル楽派」はルネサンス期の音楽、すなわち教会音楽(モテトゥス、ミサなど)や世俗音楽(マドリガーレ、シャンソンなど)の多声音楽様式により、高度なポリフォニー技法をヨーロッパ各地に広めていく楽派となりました。その頃のヨーロッパ各地の音楽における要職は、ことごとくフランドル出身の音楽家が占めていたといえます。特に、イタリア主要都市で活躍したことは各国の音楽を育てる役目を果たし、16世紀後半にはヨーロッパ各地に独自の楽派を誕生させることになります。しかし、このことはフランドル楽派全盛時代の終焉を告げることにもなりました。

 

Cristobal de Morales (西 1500-1553)

 

 クリストバル・デ・モラレスは、アンダルシア地方の古都セビーリャ、ビゼーのオペラ「カルメン」の舞台として知られるこの街に1500年代初めに生まれました。正確な生年月日や家系は明らかではありませんが、少年時代には同地の大聖堂の聖歌隊に入り、当時のスペイン一流の音楽家であったペニャローサやエスコバールに音楽を学ぶほか、ラテン語などの古典的な教養を身につけていきました。また、当時のスペインでは、ヨーロッパの他の国と同様に、フランドル出身の音楽家たちが多数活躍しており、若き日のモラレスも彼らの影響を受けたことは容易に想像できます。特に、モラレスはセビーリャでの日々を終生誇りとし、後にローマで出版する2巻のミサ曲集では「セビーリャのクリストバル・モラレス」(Christophorus Morales Hyspalensis - Hispalisはセビーリャの古名)と名乗り、ラテン語の献呈文を自らしたためています。
 1526年、おそらくは20代の若さでモラレスは、スペイン中部の都市アビラの大聖堂楽長の要職につきます。アビラ大聖堂の聖歌隊はジョスカン・デ・プレ(1440〜1521)などフランドル出身の音楽家たちの複雑かつ大規模なポリフォニー音楽をも演奏できる要員を備えていました。しかし1529年頃には、より高い報酬を求めてプラセンシアの大聖堂に移っています。
 その後1531年からしばらくの空白期間を経て、モラレスは1535年9月1日、ローマ教皇の聖歌隊に採用されます。この日は、教皇パウルス3世が芸術家ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の祭壇画制作を命じた日でもあります。モラレスはこの後10年間歌手(テノールかバリトン) 兼作曲家として教皇庁で活躍することになります。同時期の教皇庁聖歌隊には、フランドルやイタリア出身の優れた音楽家、アルカデルト(1500〜1568)やフェスタ(1480〜1545)たちも所属していました。この10年間がモラレスの音楽活動にとって極めて充実した時期であったことは間違いないでしょう。
 ローマで過ごしたこの時代、モラレスのモテット等の作品は、すでにさまざまなアンソロジーの一部に編まれ、人気を得ていました。その出版は母国スペインをはじめヨーロッパ各国におよび、作曲家や音楽理論家たちの手本として絶賛をうけるばかりでなく、フランスの作家ラブレーの著作にも「私は空想の庭園で、モラレスやその他の優れた音楽家たちが見事に歌うのを聴いた」と言及された程です。
 1544年、モラレスは自分のミサ曲をまとめ、ローマで2冊の曲集として出版し、1巻目はフィレンツェ大公コジモ・デ・メディチに、2巻目は教皇パウルス3世に献呈されました。そのパウルス3世は華やかな式典を重んじ、たとえば各国君主のローマ訪問の際には大がかりな催しが企画され、聖歌隊の合唱が披露されました。また、教皇はヨーロッパ各国の和平会談などの折をとらえて精力的に各地を訪問し、その際には聖歌隊の歌手たちも美しい式服に身を包んで同行したそうです。君主たちを前にしてのこのような式典は、モラレスにとっても自分の作品を演奏する絶好の機会であり、教皇庁での毎日のミサや聖務日課は多く無伴奏の重唱または合唱(ア・カペラ)で行なわれましたが、式典の折にはヴァイオリンやトロンボーン奏者などが臨時に採用されることもあったそうです。

 また、パウルス3世は歌手達を手厚く遇しました。聖歌隊メンバーには月々の給金のほか、住居と召使いが与えられ、教皇に随行する折には馬に乗ることが許されました。さらに勤続5年ごとに数ヵ月の長期休暇が与えられたそうです。ただ、歌手達の勤務状況はメンバーの一人によってこと細かに日誌に記録され監視され、それによるとスペイン人歌手たちは結構気が荒く、教会内で口汚く罵り合っては罰金を取られたりしていたそうです。モラレスは人前で声を荒げるようなことはなかったものの、いささか身体が弱かったようで、あるアメリカの音楽学者が先の日誌を調べたところでは、モラレスの名前の登場回数は10年間に441回、うち339回は「朝課の務めに遅刻または欠席した」という記録が残されているそうです。もっとも彼は慢性の病気(マラリア?)を抱えていて65回は明らかな病欠だったようです。
 ところで、モラレスの後半生は恵まれていたとは言い難く、ミサ曲集の献呈先コジモ大公は恋愛を歌ったマドリガーレを好み、モラレスの重厚・荘厳な作風には興味を示しませんでした。また教皇からも思うほどの引き立てを得ることのできなかったモラレスは、故国に帰る決意をします。1545年3月、彼はトレドの大聖堂楽長に就任しますがここをわずか2年で去った後、アルコス公爵家に3年、マラガの大聖堂に3年奉職し、同時代の理論家ホアン・ベルムードに「音楽におけるスペインの光」とまで称えられた国際的名声に比べて、モラレスの現実の生活は報いられるところがありませんでした。自ら望んでスペインに戻ったモラレスですが、トレド大聖堂での生活は予想外の厳しさだったようです。演奏や指揮に加えて、聖歌隊のライブラリを充実させる仕事のほか、常に十数人の少年聖歌隊員たちを自分の家に寄宿させ、面倒を見、スペイン語とラテン語以外の教科を教えなければなりませんでした。モラレスは実務能力のほうは弱かったらしく、この務めを果たすために、たちまち借金生活に陥ってしまいました。その上、歌手たちは彼に馴染まず、オルガニストに直接指図することさえできなかったのです。モラレスが晩年、トレド→アルコス公爵家→マラガと転職を繰り返したのも、ローマ時代に勝ち得た名声と現実の生活との間にギャップを感じていたからではないでしょうか。1553年、再びトレド大聖堂に戻ろうと考えながら果たせぬまま、モラレスはこの世を去りました。
 モラレスの死後、その作品は19世紀に至るまでヨーロッパ各地で出版され続けました。16〜7世紀のスペインやイタリアの作曲家たちは彼の作品を熱心に研究し手本とし、さらに、当時宗教改革の気運が高まりつつあったドイツでも主義主張の違いを超えて受け入れられたばかりでなく、大西洋を渡った南米にも伝えられ、1559年にカルロス5世の追悼のためにメキシコシティで行なわれた集会でも歌われました。天正少年使節団がスペインを訪問した折の歓迎の音楽や、カトリックの宣教師たちが日本のセミナリオに携えてきた楽譜の中にも、もしかするとモラレスの作品が含まれていたのではないでしょうか。

(以上、Robert Stevenson: Spanish Cathedral Music in the Golden Age (1961年、Univ. of California Press)他を参考にしました)

 

Francisco Guerrero (西 1528-1599)

 

フランシスコ・ゲレーロは、南スペインのセビーリャやマラガなどの大聖堂楽長として活躍し、ラテン語のモテットや、スペイン語によるビリャンシーコなどの作品を数多く残しています。特に聖母マリアをたたえた楽曲に傑作が多く、その故に当時の世人はゲレーロを「マリアの歌人El cantor de Maria」というあだ名で呼んだそうです。後輩にあたる同じスペインの画家バルトロメ・ムリリョ(1617-1682)のマリア像にも似た、甘美で叙情的な作風がその特徴です。

 

Tomas Luis de Victoria (西 1548-1611)

 

トマス・ルイス・デ・ビクトリアは1548年、中央スペインのアビラに生まれました。この町の中央広場はこの作曲家の名を記念して「ビクトリア広場」と名づけられています。

ビクトリアは1565年にはローマに出てイエズス会の学校コレギウム・ジェルマニクムに学びました。1567年にサンタ・マリア・ディ・モンセラート聖堂の楽長・オルガストに任命され、その後サン・アポリナーレ教会、コレギウム・ジェルマニクム、ローマ神学院などで活躍し、その後、マドリードのラス・デルカルサス・レアレス修道院での隠遁生活に入ったといわれています。この行動により、後に「ビクリアは熱烈なキリスト者であり、誉れある最も敬虔な男子」と評されることになりました。ビクトリア自身この時期に宗教精神を深めたことは間違いなく、事実「マニフィカト集」、「第2モテット集」、「聖週間聖務曲集」等を作曲しています。

ビクトリアはその生涯からも明らかなように、一生を教会音楽家として過ごしラテン語による宗教曲のみを作曲し、世俗曲は一曲も残していません。現在残っている彼の作品にはミサ曲20曲(レクイエム2曲含む)、モテット44曲、イムヌス34曲、マニフィカト18曲、アンティフォナリウム等があります。これらはルネサンス・ポリフォニーの書法を中心に書かれ、それにスペイン特有の神秘主義的表現が加わって、宗教的情熱に満ちた昨品になっています。

 

Givanni Pierluigi de Palestrina (伊 1525/6-1594)

 

ルネサンス後期を代表する作曲家、ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナは1525年頃にローマ近郊サビーネの丘にある町パレストリーナに生まれたためにこの名があります。生涯の大半をローマで過ごし、作品の殆どをカトリック教会のために作りました。ローマ・カトリック本山である、サン・ピエトロ大聖堂のカペルラ・ジュリアの楽長、サンタ・マリア・マジョーレの楽長などを務めた彼は、105曲のミサ曲、375曲以上のモテット等数多くの宗教作品を残しています。それらのミサ曲には、あらゆる手法が駆使され、パロディ・ミサ(他の作品の旋律を使う)、パラフレーズ・ミサ(グレゴリオ聖歌の旋律を各声部に使う)、テノール・ミサ(テノールに定旋律を使う)などです。

ところで、トレント(トリエント)公会議においてポリフォニーの堕落を指摘し、それらの作品を排除しようとする一派が存在したそうですが、これに対してパレストリーナは「教皇マルチネスのミサ(1567)」を作曲し、たとえ多声音楽でもミサの言葉が明確に聞き取れるように作れることを示して、教会音楽におけるポリフォニー音楽存亡の危機を救ったという伝説が伝えられています。これは20世紀にプフィッツナー(独1869-1949)がオペラに作曲した有名な作り話ですが、「教皇マルチネスのミサ」で言葉が良く聞き取れることは事実です。

パレストリーナの作品は、ジョスカン・デ・プレらに代表される百年前の技巧的対位法をさらに洗練させたもので、カトリック教会がパレストリーナの作品をポリフォニー聖歌の理想としてきたのも頷けます。

 

 

 

 

 

 

 

 


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